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National Institute of Industrial Health

サリンの話題

有害性評価研究部主任研究官 小川康恭

 平成7年3月20日午前8時前後に営団地下鉄千代田線(新御茶ノ水)、丸の内線(御茶ノ水・四ッ谷)、日比谷線(恵比寿・秋葉原)の3線5カ所の車両内で一斉にサリンガスが散布された。国会議事堂前、中野坂上、神谷町、霞が関、八丁堀、茅場町、人形町、小伝馬町等の駅では被害者であふれかえり大混乱となった。消防庁の統計によると死者が12名、死傷者が5510名の大事件となった。さて、この地下鉄サリン事件は1)地下鉄という職場で起こった事故、2)通勤途上で起こった事故、3)化学物質暴露による健康障害、という点で労働衛生の問題として捉えることができる。化学物質暴露による健康障害という視点から見るとこの事件は「非計画実験疫学」に分類される。実験疫学とは、研究者が計画に基づいて被験者集団にある操作を加えその変化を調べる方法である。今回の地下鉄サリン事件の場合、テロリスト集団は意図的に神経ガスを散布しているが、それは当然研究が目的ではなく殺人が目的である。しかし、科学研究の立場からは神経ガスがヒトにどの様な効果を及ぼすかを調べるための意図しなかった実験と考えることができる。さて、今回の事件を「非計画実験」と解釈するならばこれは単回暴露実験に対応する。発生源及び発生時間は明確であるため比較的容易に暴露状況を特定でき暴露と健康影響との関連を探りやすい。さらには、都会での事件であったことから、多くの被害者は比較的短時間のうちに医療機関で受診しており、その何人かは血漿コリンエステラーゼ値を測定している。体内へ入ったサリンの量は血清コリンエステラーゼ値の低下で推定できる。この値を利用することにより暴露と健康影響との間の用量反応関係を示すことが可能である。
 我々は七つの病院の協力を得て住所の分かる全受診者1089名に調査の依頼と暴露状況及び自覚症状を聞く質問紙を送付した。さてこれらの回答者のうち、病院に事件当日で治療前に測定した血漿コリンエステラーゼ値が記録されていた者は454名であった。調査の結果、事件遭遇場所がサリン発生場所に近いほど平均血漿コリンエステラーゼ値は低下し、また平均出現症状数は増加していた。瞳孔や分泌線が刺激されるムスカリン様症状である「目の前が急に暗くなった」、「頭痛」、「呼吸が苦しい」、「視野が狭くなった」、「鼻水」、「咳」は全身曝露の程度に係わらず少なくとも3人に1人は出現していた。また、中枢神経系症状である「吐き気」、「眠れない」、筋肉の動きに影響がでるニコチン様症状である「思うように歩けない」は全身曝露の程度が重いと思われる人々で多く出現していた。すなわち、血漿コリンエステラーゼ値が暴露量評価に有効であること、訴えた症状数も暴露量と関連すること、ムスカリン様症状は重症度よりも暴露の警告として有効であること、そして、中枢神経症状及びニコチン様症状が重症度を表すことが分かった。
 これらの結果は、被害に遭われた人々の今後の健康管理に活用できるばかりではなく、化学物質の暴露とヒト健康影響との関係を考えるうえでの貴重な資料となる。このように多くの人々が犠牲となった事件も、しっかりした疫学調査を実施することにより人類の幸福のために活用できるのである。

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