労働安全衛生総合研究所

近代産業安全運動の先駆者たちが遺した未来への提言

独立行政法人労働安全衛生総合研究所

 故花安元研究部長による産業安全運動の先駆者の話を紹介します。花安元部長は統合前の産業安全研究所を平成18年3月に退職して横浜国立大学安心・安全の科学研究教育センターに移られ、平成21年11月に逝去されました。

 本稿は病魔と戦う中、産業安全運動の先駆者達の活動の引き継ぎを強く意識された花安元部長が、しかしながら新たな稿の執筆は為しえず、以前に執筆された横浜国立大学安心・安全の研究センターの年報記事をもって思いを伝えることを望まれたもの。同記事をブラウザー向けに形式を変換して転載致します。

(理事長 前田豊)



『近代産業安全運動の先駆者たちが遺した未来への提言』*)

元 横浜国立大学
    安心・安全の科学研究教育センター
    教授 花安 繁郎

1.近代産業安全問題の出発点



 私たちが今日直面している産業安全問題は,18世紀末葉英国で始まった産業革命によってもたらされました。

 当時の産業活動に伴う危険に対峙したのは,綿紡績工場で機械を操作する女工や機械のエネルギー源である石炭・鉄鋼石を採掘する鉱山での坑夫たちでした。つまり,工場や鉱山などの産業革命を担う生産現場での危険源に直接係わった人々が災害の対象であり,今日でも続いている労働災害の皮切りとなったものです。

 その後,産業の拡大とともに大規模爆発災害や水質汚濁,大気汚染など,産業活動に付随する影響がたんに工場などの生産現場内に留まらず,工場外での住民や環境にも影響を及ぼすいわゆる「公害」が出現し,その対応に追われてきたところですが,今日では,地球温暖化による地球規模での環境問題や各種の環境ホルモンによる次々世代の生物への影響問題などが出現し,産業活動に伴う影響は空間的拡大と時間的深化をみせています。

図:安全問題の拡大と時間的変化


 我が国で本格的な産業革命が導入されたのは,明治開国後に富国強兵,殖産興業が国家政策として採用されて以降です。ここでは,我が国で産業の近代化が開始された後に,産業安全運動がどのように取り組まれて今日に至っているかについて概観してみます。


2.近代産業安全運動の先駆者たち



<産業安全運動の先駆者#1  小田川全之

 欧米に比べ100年近く遅れて近代化を開始した日本では,明治政府の強力な政策の下に産業革命が推進されました。

 明治初期に産業の近代化を担ったのは,生糸を中心とした繊維産業と石炭・鉄鋼石などを採掘する鉱業でした。やがて日清・日露戦争を経て重工業化が進みますが,急速な近代化の下で,産業安全運動が展開されるまでにはかなりの時間を要しました。

 我が国で産業安全運動が導入されたのは,明治末に古河鉱業会社(現:古河機械金属)足尾鉱業所,通称足尾銅山と呼ばれる事業所で展開された「安全専一」運動が始まりです。「安全専一」運動を導入するに当たって指導的な役割を果たしたのが,当時足尾銅山所長であった小田川全之(おだがわ・まさゆき)です。

写真:産業安全の先駆者1:おだがわまさゆき(足尾銅山所長)と足尾銅山で用いられた標識


 小田川全之は1861(文久元)年に幕臣小田川彦一の長男として生まれ,徳川宗家の静岡藩への移封に伴い沼津へ移り,同藩藩校である代戯館に学び,その後明治16年に工部大学校土木工学科を卒業しています。

 工部大学校卒業後は群馬県,東京府の土木工事や民間鉄道工事等に従事したのち明治23年に古河家に入り,足尾銅山での土木工事や鉱毒対策に取り組みます。鉱毒対策では最新技術の導入を図るとともに,明治30年には農商務省からの第三回鉱毒予防令に対して,180日間の期限内に排水濾過池・沈殿池や採鉱堆積場の築造,煙突への脱硫装置の設置等の難工事を成し遂げ,鉱毒の河川流入や拡散防止対策の中心的役割を担っています。

 明治37〜40年には米国に滞在し採鉱・精錬技術の調査を進め,これら最新技術とともに持ち帰ったのが当時米国で「Safety First」と呼ばれ広がりをみせていた安全の理念とその実践思想です。「Safety First」とは,米国最大の鉄鋼会社であったUSスティール社が1906(明治39)年にゲーリ工場を建設し操業を開始する際に「安全第一,品質第二,生産第三」をスローガンとして掲げ,工場設計,建設施工,設備搬入,レイアウト,据え付け・運転に至るまでの過程を安全第一主義の下に実施したところ,災害が激減するとともに生産効率も大幅に改善されたことが評判となり多方面に影響を与えた実践運動です。

 小田川全之は明治44年に足尾銅山所長を兼務し,翌年から「安全専一」と記したほうろう製の標識を坑内作業所に掲げ,大正2年から同事業所所内報である「鑛夫之友」を刊行し,同誌に作業安全を喚起するための講話を掲載するとともに,大正4年には安全心得読本を作成し作業員全員に持たせるなど,文字通り事業場での安全確保のための先駆的活動を展開しています。

 「安全専一」活動は足尾銅山内に限定されたものでしたが,疑いもなく産業安全という普遍的な価値を実現するための先駆けとなった運動です。周知のように足尾銅山は,日本の公害問題の原点と呼ばれ,産業近代化技術によってもたらされた負の遺産の象徴的な場所となっていますが,同時に産業安全運動の出発点ともなった地です。

<産業安全運動の先駆者 #2 蒲生俊文
 小田川全之によって掲げられた産業安全運動の灯火は大正時代に入り次の世代に引き継がれます。産業安全運動に関する次世代の代表格の一人が蒲生俊文(がもう・としぶみ;1883(明治16)年生まれ)です。

 二高,東京帝国大学で学んだのち東京電気(現:東芝)において安全活動を開始します。同社工場内に我が国で初めての事業所内安全委員会を組織し活動を展開するとともに,「Safety First」を安全第一と訳し,広く同思想の啓蒙普及を図るために,逓信次官内田嘉吉(うちだ・かきち)らとともに「安全第一協会」を1917(大正6)年に設立しました。同協会の事業として,機関誌「安全第一」を通して広範な安全情報を提供するかたわら,2年後の1919(大正8)年には,現在まで引き継がれ毎年実施されている安全週間運動を最初に企画・開催し,その際,産業安全のシンボルマーク・緑十字を定めるなど,産業安全運動をたんに事業所内での活動に留めず社会運動へと発展させた中心人物です。

写真:産業安全の先駆者2:蒲生俊文(東京電気)と最初の安全週間に制定された緑十字


 それまでの事業所における安全問題は,「けがと弁当は手前持ち」と呼ばれていたように,工場で災害が発生した場合には,被災者が一方的に解雇されたり,見舞金による示談で済まされたりなど,事業所での安全責任は事業者と労働者との片務的な私的関係によって処理されていました。

 「安全第一協会」による活動の意義は ─ そのような状況下にあった安全責任の枠組みを,同協会の安全第一思想に基づく運動を通して,事業所での安全対策の必要性や災害補償制度の有用性を社会的に認知させることによって ─ 工場法により法制化された労働災害に対する予防措置や災害補償を,事業者責任として履行させることを促進したことにあります。すなわち,生産活動に伴う安全の確保が国家・社会的管理の枠組みの下に取り組まれるための産業界の基盤整備を行った訳です。

 現代の地球環境問題が,一国の対処では限界があるために,国際的な枠組みの下で取り組むことによって産業社会が世界規模で再編されようとしていますが,産業安全の役割と責任を基軸とした産業社会の見直しと再編はほぼ一世紀前から始められています。

<産業安全運動の先駆者 #3 三村起一

 東の足尾銅山の小田川全之,東京電気の蒲生俊文に対して西で活躍したのが住友伸銅所(現:住友金属工業)の三村起一(みむら・きいち;1887(明治20)年生まれ)です。一高,東京帝国大学で学んだのちに住友総本店に入社し,住友伸銅所にて安全運動を開始します。我が国での最初の労働立法である工場法が大正5年に施行された折から,工場内での安全活動を周囲の無理解と闘いながら率先垂範して展開しています。大正8年には米国へ労務管理研修のために出かけ,帰国後は住友各社の重役を務めたのち,昭和16年住友鉱業(現:住友金属鉱山)社長,同年住友本社理事を歴任します。戦後は経団連理事や産業災害防止対策審議会会長,さらに初代中央労働災害防止協会会長など枢要なポストを務めました。

写真:産業安全の先駆者3:三村起一(住友伸銅所・初代中災防会長)


 三村起一と蒲生俊文とが出会ったのは大正6年に三村が蒲生の工場を訪れたときですが,その出会いは三村の一高以来の恩師新渡戸稲造の勧め,紹介によるものでした。また小田川全之と蒲生俊文との接触については,蒲生俊文が「安全第一協会」を設立し安全第一運動を展開した折,小田川全之は同協会の賛助会員として参画するとともに,同協会設立総会での記念講演や機関誌へ投稿を行うなど,その活動に対して積極的な支援をしています。

 このように産業安全運動は,小田川全之や新渡戸稲造らの明治期の近代化を担った世代と,蒲生俊文や三村起一らの次の世代とが密接な関係を有しながら引き継がれていきます。


<産業安全運動の先駆者 #4 伊藤一郎

 昭和に入り,昭和4年には工場法に基づく工場危害予防及び衛生規則が定められ,作業安全のための環境整備は進展しますが,やがて戦時統制が強化される中で,産業安全運動も停滞を余儀なくされていきました。そのような状況下にあった産業安全運動の中で忘れてはならない人物が伊藤一郎(いとう・いちろう;1888(明治21)年生まれ)です。明治44年東京高等工業学校卒業後に同校助教授,東京工業大学講師を経て伊藤染工場の経営に参画しています。昭和14年同工場を東洋紡績に譲渡し,翌年その売却金50万円を国に寄付し,「安全第一協会」設立以来多くの産業安全関係者の宿願であった産業安全研究所産業安全博物館の設立を願い出た人物です。

写真:産業安全の先駆者4:伊藤一郎と伊藤による産業安全研究所設立寄付願い


 伊藤一郎の寄付金を基に,さらに多くの企業からの寄付金によって昭和17年に産業安全研究所が設立され,翌年には産業安全博物館を開館しています。現在,産業安全博物館は,東京および大阪において「産業安全技術館」として,産業安全衛生に関する展示や情報提供などの広報活動を行っています。一方,産業安全研究所は東京都清瀬市において独立行政法人労働安全衛生総合研究所・産業安全研究所**)として,産業安全のための広範な研究活動を展開しています。現在は,同研究所も近年の行政改革の下で統合,合併の渦中にあります。

写真:労働安全衛生総合研究所

**)平成22年現在は独立行政法人労働安全衛生総合研究所・清瀬地区と称している

3.戦後の産業安全運動および大学における安全研究と安全教育の展開


 戦後,昭和22年に労働省(現:厚生労働省)が設立され,安全衛生行政が同省所管の下に執行されるとともに,労働基準法や労働者災害補償保険法,労働組合法などが成立し,労働条件を取り巻く環境と執行体制は大きく変わりました。戦後の復興を経て昭和33年には国としての産業災害防止総合五カ年計画***)が策定され,以降5年ごとに改訂されています。また昭和47年には労働安全衛生に関する基本法とも言うべき労働安全衛生法も成立しています。この間産業安全運動もさまざまな変遷を経て,現在は中央労働災害防止協会,建設業労働災害防止協会を始め多くの団体・組織による活動に引き継がれています。
***)労働災害防止五カ年計画と呼ばれるようになったのは昭和43年策定の第3次から

 また,産業活動の拡大と進展とともに,大学レベルでの安全工学研究と安全教育の充実の必要性が叫ばれ,それらを受けて産業界からは三村起一らによる強い建議によって,また学界からは北川徹三(きたがわ・てつぞう)教授らの尽力により昭和42年に横浜国立大学工学部安全工学科が設立されました。大学も組織改革が進み,現在は,学部では工学部物質工学科物質のシステムとデザインコース,大学院では,環境情報学府環境リスクマネジメント専攻セイフティマネジメントコースにおいて安全に関する研究教育活動が展開されています。

写真:横浜国立大学工学部(旧)安全工学科


 さらに関根和喜(せきね・かづよし:初代センター長)教授らの尽力により平成16年に設立されたのが横浜国立大学安心・安全の科学研究教育センターです。同センターにおいて文科系と理科系を融合した広範な安全科学およびリスクマネジメントに関する研究と教育が行われています。

写真:横浜国立大学安心・安全の科学研究教育センター


4.むすび


 以上,我が国における明治近代化以降の産業安全運動の概略を述べてきました。産業活動に伴って生ずる労働災害について,その防止対策の責任主体が,当初の労働者個人による責任として扱われていた段階から,国家規制による事業者責任として法制化されるまで,あるいは事業者の無過失責任に基づく災害補償制度が本格的に導入されるまで,さらには民事責任においても「安全配慮義務」が事業者責任として確定する段階まで,幾多の変遷を経て今日に至っています。この安全に関する管理責任の枠組みが変革する過程にあって,働く場での安全確保が事業者による責務として普及・実現するためには,小田川全之や蒲生俊文らの志と情熱を有した産業安全運動の先駆者によって始められ,その後の後継者に受け継がれてきた安全活動が大きな役割を果たしてきました。これらの運動が引き継がれ,産業安全という普遍的な価値実現のための地道な活動が今 日も続けられています。

 これからの産業安全は,経済のグローバル化が進行する中で,世界的枠組みの下に展開することが求められています。すでに,安全衛生を含めた労働条件に関する国際労働機関(ILO)条約・勧告(例:第1号条約・八時間労働制)が多数発出されているほか,近年では国連勧告に基づく「化学品の分類および表示に関する世界調和システム:GHS」や,EUから発出された予防原則に基づく「欧州化学物質規制:REACH」,あるいは事業場での安全衛生確保のための「労働安全衛生マネジメントシステム:OSHMS」など種々の国際規格やシステムが展開されています。 これらの動きに示されるように,産業安全および環境問題への対応によって産業活動の枠組みが世界規模で再編されつつあります。

 この世界規模で進行しつつある産業社会の再編を,より安全で安心な産業社会の創成へとつなげ,そのための改革に貢献することが現代の私たちの使命であり,これこそが近代産業安全運動の先駆者たちが私たちに遺した未来への提言と考えます。

 横浜国立大学安心・安全の科学研究教育センターは平成16年に設立されましたが,背景には工学部安全工学科の生みの親である北川徹三教授以来の多くの研究者によって積み重ねられてきた伝統と継承があります。これまで取り組まれてきた安全科学およびリスクマネジメントに関する先端的な研究と人材育成の成果を明日につなげ発展させていくことが安心・安全の科学研究教育センターの役割であり,今後一層の飛躍が期待されるところです。

刊行物・報告書等 研究成果一覧