労働安全衛生総合研究所

日立造船株式会社からの寄附により設置された大阪産業安全博物館

独立行政法人労働安全衛生総合研究所

 当研究所の前身の一つ産業安全研究所が、伊藤一郎という篤志家とその賛同者の寄附をきっかけに設立されたものであることはに述べた。注意していただきたいのは、このとき産業安全研究所のみならず産業安全博物館(名称が参考館、技術館の時もある)の設置も同時に進められたことである。これは、先人達の考えが、研究所が単独で存在するのではその機能を十分に発揮し得ないのであって、産業現場のニーズを把握した研究を実施し、また同時に研究成果を還元するためには研究所に付属の博物館が必要であるというものであったためと思われる。平成13年に研究所が独立行政法人化されたとき、技術館は国の組織に残り、研究所とは別のものとなったが、どうだったのだろう。

 さて、この寄附を受けて昭和17年に産業安全研究所が設立されたが、翌昭和18年には産業安全参考館が研究所に附設され、更に昭和36年には大阪産業安全博物館も設置されている。今回はこの大阪産業安全博物館について少し述べてみたい。

 昭和30年代に入って労働災害は急増することとなり、昭和33年8月、政府による「産業災害防止総合五カ年計画」が発表された。産業安全研究所は安全のサービス活動を拡大強化すべく、関西方面における産業安全博物館の設置を計画し、昭和35年には大阪市北区の大阪国際貿易センター(その跡地に大阪府立国際会議場が建設された)の一部を借用して大阪産業安全博物館とすることが計画された。予算難で設立は困難であったが、日立造船株式会社から創立80周年の記念事業の一環として土地・建物の寄附の申し出があり、昭和36年4月、大阪産業安全博物館が大阪市森ノ宮に設置された。

写真:大阪産業安全技術館(昭和36年当時)

大阪産業安全技術館(昭和36年当時)

 発足時の委託展示の呼びかけには100社を超える事業場からの応募があった。当時の出品依頼文書には、以下のように書かれている:
「...大阪産業安全博物館は、工場事業場における安全管理のために参考となる諸資料を展示し、使用者をはじめ安全管理者、安全係員、安全推進員等の利用に供し、安全管理を推進するための技術的指導、安全装置、保護具等の紹介および安全問題の相談に応ずるのほか、職長、労働者等に対する安全教育の場を提供し、更に広く国民運動の基盤を醸成するため、 "学生、生徒、その他一般国民" を対象として、安全思想の普及高揚を図る等の活動を行い ...」
 我々も忘れていたのかもしれないが、この文の思想を踏襲し、働く人に限らず広く“一般国民”を対象とした普及に、もっと力を入れるべきであったかのもしれない。

 時は流れ、研究所と分離した産業安全技術館の運営は中央労働災害防止協会に任され、そして事業仕分けを受けて廃止が決まった。我々の力不足か時代の流れか、おそらくその両方であるのだろうが、技術館の設立に身銭を切ってくれた先人達はさぞやお怒りなのではないだろうか。

(理事長 前田豊)

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