労働安全衛生総合研究所

建設業における英国の安全衛生の考え方〜英国を調査して〜

独立行政法人労働安全衛生総合研究所

 今回、2015年9月7日〜9月11日という日程で、英国の建設業における安全衛生の考え方を調査するため、同国のバクストン及びロンドンを訪れ、安全衛生機関等を訪問しました。

 今回の調査は、英国の行政施策等のロンドンオリンピック2012への効果を調査することを目的としました。きたる東京オリンピック2020の会場整備、インフラ整備等の事業において、労働災害をできる限り低減させることも視野に入れています。

 英国はロンドンオリンピック2012の会場整備、インフラ整備等の事業に関わる死亡災害をゼロにした経緯があります。また、英国はいち早く発注者や設計者への責務を施工者や作業員の責務とともに罰則付きで規定した国でもあります。同規則は、建設(設計とマネジメント)規則(Construction(Design and Management)Regulation,以下「CDM」という。)と呼ばれています。同規則は、1994年に初めて発出され、2007年、2015年と改正されています。同規則についてもその内容や改正経緯も含めて調査しました。

 今回の調査対象は多岐にわたりました。英国の安全衛生庁(Health & Safety Executive,以下「HSE」という。)、安全衛生研究所(Health & Safety Laboratory,以下「HSL」という。)、労働組合会議(Trades Union Congress,以下「TUC」という。),英国産業連盟(Confederation of British Industry,以下「CBI」という。)等です。調査は、近畿大学の三柴教授や厚生労働省の武部中央労働衛生専門官とともに実施しました。


写真-1 HSE及びHSLとの意見交換(HSLにて)


写真-2 Construction Industry Summitへの参加


写真-3 TUCとの意見交換(TUCにて)


 調査を進めるうち、英国の安全衛生への考え方が少しずつですが見えてきました。英国では、「リスクを発生させる人又は組織が、リスクを除去又は低減する責任を負う。」という大原則があります。「リスクを発生させる人又は組織」とは、オリンピック等の会場整備やインフラ整備事業等では、発注者に当たります。なぜなら、発注者が、土地を整備し、そこに構造物を建設する事業を興すからです。そのように考えると、確かに存在していなかったリスクが、発注者によって発生するわけですので、発生させた本人又は組織自体がそれを管理(除去又は低減)することは理にかなっています。ただし、発注者は往々にして専門的な知識を有していませんので、設計者、施工者、作業員等と協力してリスクを管理します。

 そのような考え方もすぐに生まれてきたわけではないようです。CDMが初めて発出されたのが1994年ですが、2000年まではそれがあまり受け入れられることもなく、効果が見られなかったそうです。長期的には減少に向かっていた労働災害でしたが、2000年にかけて逆に死亡災害が増加し、1つの現場で4名もの尊い命が失われる事故も起きました。その事故は、当時のトニー・ブレア政権の副首相であったジョン・プレスコット(John Prescott)の選挙区で発生したため、ジョン・プレスコットは非常にショックを受け、業界団体のCEOを集めた会議を開催しました。同会議で、建設工事中の死傷災害の被災者、加害者的な立場の者、被災者の所属する企業のCEO、被災者の家族等のインタビュー動画(http://www.hse.gov.uk/construction/resources/turning-concern-into-action.htm : 英国HSEのサイトへ)を流しました。そのインタビュー動画は、非常にパワフルで、それを見終わった会場が数分間静寂に包まれたということです。今回インタビューしたHSE、HSLの担当者らが言うには、そこで英国における「Safety Culture(安全文化)」が変わったと感じたということでした。

 現在の英国の「Safety Culture(安全文化)」とは、発注者、設計者、施工者、作業員が自ら安全衛生について真摯にとらえ、リスクを洗い出し、リスクを除去又は低減するためにどうしたら良いかを真剣に考え、共同で取り組むことです。

 それ以降、政府(HSEやHSL)と業界団体が一丸となって、安全衛生に取り組むこととなりました。そのような中、HSEは、ロンドンオリンピック2012の準備をおよそ6年前から始めています。CDMが改正されたのも2007年ですから、おそらくロンドンオリンピック2012を見据えてのこともあったと思われます。ロンドンオリンピック2012の準備に当たってHSEが具体的に実施したことは、オリンピック開発庁(Olympic Development Authority、以下「ODA」という。)を発注者として、発注者が開催する連絡協議会等に積極的に参加し、安全衛生を支援したことです。連絡協議会は、発注者、設計者、施工者等で構成され、考えうる全てのリスクを洗い出し、それらリスクの除去又は低減を図ることを目的としました。ここで重要なことは、HSEがリスクの責任を負うわけではないことです。先に述べたように、あくまでリスクの所在は、リスクを発生させる人又は組織にあります。HSEの役割は、リスクの洗い出し、リスクの除去又は低減を促すことです。

 このように政府と業界団体が一体となり安全衛生に取り組むことで、死亡災害はゼロになりました。延べ労働時間数は約8000万時間にのぼりますが、傷害・疾病・危険発生報告規則(Reporting of Injuries, Diseases and Dangerous Occurrences Regulations)に基づいた報告もわずかに150以下に留まり、度数率もわずか0.16とのことです。

 ところで、CDM2007には特徴的なことが見られます。それはCDMコーディネータ(CDM coordinator、以下「CDMC」という。)を設けたことでした。発注者は往々にして専門的な知識を有していないため、CDMCは発注者へのアドバイスを行うとともに設計者、施工者等と発注者との連絡調整も行っていました。ただし、CDMCは、コンサルタントが主に担っていたため、担当する建設プロジェクトに共同に取り組むという意識を生まず、どちらかというと第3者的な役割に留まり、うまく機能しなかった例が多く見られました。

 そこで、実質的に建設プロジェクトに共同で取り組むため、CDM2015では、CDMCを廃止し、新たにPrincipal Designer(主設計者)という役割を与えています。主設計者は、建設プロジェクトの設計を担うだけでなく、CDMCの役割であった発注者へのアドバイス、設計者や施工者間の連絡調整の役割も担います。

 CDMの改正のように、英国では、規則に関してもPDCA(Plan, Do, Check, Act)が徹底しています。つまり、規則を企画・立案(Plan)し、実行(Do)し、チェック(Check)します。その規則に改善の余地が認められれば、より良いものへ改善(Act)します。Actは何かしらの動きであるため、継続も含まれると考えられます。

 ただし、これらを含めたHSEの行政施策は、TUCやCBIへのインタビューによると、必ずしも良い面ばかりではないようです。HSEでは公認実施準則(Approved Code of Practice、以下「ACOP」という。)という実施準則があります。ACOPとは、法律を遵守する方法についてアドバイスを与えるもので、規則で「適切かつ十分な(suitable and sufficient)」などという表現が使われている場合、ACOPではこの表現が具体的な状況の中でどのようなことを求めているかを説明しています。

 HSEではACOPの数を減らそうという動きがあります。TUCは労働者の団体ですから、法律や規則をわかりやすく解説したACOPが減ると困るようです。一方、CBIは大手企業の団体ですから、よりビジネスチャンスを考えており、少しでもHSEによる規制は少ない方が良いと思っています。CBIが言うには、ACOPには満足しているが、これ以上の事務の増大は望ましくないと思っているようです。CDM2015についても今までの規則で満足していたにも関わらず、また改正され、また新たな書類作成作業が増えるのではないかと懸念しているとのことです。さらに、HSEの監督官が建設工事現場を視察し何かしらの安全衛生の向上を指導した場合、指導された側はその監督官の時間給を支払わなければならないようです。今まで築き上げてきた業界団体とHSEとの信頼関係がこれにより少しずつ失われているようです。つまり、HSEがPDCAを回し安全衛生の理想像へ近づけるスピードとそれを実行する業界団体の側に隔たりが生まれつつあるようです。

 以上を鑑みると、英国のやり方がそのまま日本に適用できるとも限りません。大切なことは、これまで築きあげてきた日本の良さを失わずに、海外の良いやり方を日本独自の形に修正を加えつつ取り入れることだと思います。日本と英国ではその文化や考え方が異なるからです。どのようにしたら良いか、これから日本全体で模索していかなければならないと思いますが、例えば一つには中央労働災害防止協会が掲げるゼロ災運動(http://www.jisha.or.jp/zerosai/zero/file01.html : 中央労働災害防止協会のサイトへ)を施工者間で留めるのではなく、設計者、発注者まで拡張することも考えられます。つまり、発注者、設計者が施工中、供用中、維持管理中、解体又は改修中の安全衛生に積極的に関与することです。それらの安全衛生を企画、設計段階から連絡協議会などにおいて真剣に考えることが重要ではないでしょうか。

 日本はこれまでも様々な事柄に対し、海外の国を参考にしつつ、より良いものを生み出してきました。安全衛生の文化(Health & Safety Culture)も日本独自のより良いものを建設できるよう、私たちも微力ながら尽力していきたいと思っています。


謝辞
HSEのサイトへのリンクにつきましては、HSEに許可をいただき掲載しております。ここに示して謝意を表します。



建設安全研究グループ 主任研究員  吉川直孝
労働災害調査分析センター長  大幢勝利
理事  豊澤康男

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